※(唐突ですが)2022年4月から残していた何でもないブログ下書きの供養をさせてください…の巻です
「好きな曜日」と聞かれたらなんて答えますか。
お休みの土日が見え始めた金曜日
お休み真っ最中の土曜日
と思いきや、私の場合はそれが
「木曜日」でした。
今日は木曜日、
明日は木曜日、
あと何日頑張ったら木曜日、、
完全に「木曜日」が1週間のターニングポイントであり、7日間を横並びにした時にひょいとずば抜けているのが「木曜日」
寝起きの悪うオンナですが、木曜日の朝が来て目を開けた瞬間から身体のボルテージがギュギュギュン!とかけ上がるのが分かる。なんなら水曜日のお昼から眠るのが楽しみで、
切羽詰まった生活を送っていてなかなか起きれない日でも、今日も頑張ってらっしゃったんだと、そう思うだけで木曜日は家を出て学校に向かって歩いた私の足跡から音符がビュンビュン飛び出してきそうなほど、私の歩く足はルンルンしていて、電車のドアにもたれつつも口角はギュンギュンだった。マスクをしてからの生活はその口角の上がり具合は容赦なかった(ん〜思い出すと怖いね)
そんな木曜日の朝がなくなった今、私の1週間は以前より起伏がなくなったさら地のようになっている、ように感じる
箱根駅伝でたとえると中間の坂が無くなったみたいな(例えんでええんやで)
もちろん今までの「木曜日」がなくなった今も、月曜日火曜日にも金曜日土曜日日曜日までもみんなは楽しみを提供し続けてくれていて、そこが私の水分補給所として君臨し続けてくれている。ことさら感謝しかない、感謝に尽きる
なのになんてこんなわがままなこと思ってしまうんだろうね、いい加減にしろし自分よ………と思うこともしばしば……人の感情は時に不条理だぜ……と粋な言葉を天に向かって(心の中で)
終わりを告げたあの日から「木曜日」を思い出してポロポログハグハ泣いてしまう瞬間があって、ここの下書きに留めては落ち着き…を繰り返してて。
と、いったように
4月5月、私はまだ「木曜日」を探していました。
『何かが終わると何かが始まる』
沈んでいた気持ちを抱えていた私を前向きな気持ちにさせようとしたのか、私の脳みそからこの言葉が発令されたようで、ふとこの言葉が頭をよぎりました
この言葉っていつの間にかそこらへんに漂っている、この世の摂理みたいな、そんなフリをした言葉だし…
一見前向きそうな核心をついたような言葉だけれども、正直終わりの寂しさや辛さに蹴りをつけるための都合の良い言葉でしょ…
と正直私の中のデビルンちゃんは不貞腐れたように、こんなことを思っていまして。
終わりは終わりやねん!始まりなんぞないんや…と、自分の中で出てきた言葉に自分で突っ込むというわけわかめ太郎なことをしてしまう私はやはり関西人なのだろうかと話が逸れるようなことを思いつつ、私の心はまだ「木曜日」がなくなったことを受け止めきれていなかったようです。
それゆえ録画機器の録画一覧の3月31日の放送は再生されぬまま、「NEW」のバッジがつけられたまま。それに、私は朝の情報番組自体を見ることに躊躇いを感じるようになっていました。
「木曜日」が終わってしまう理由なんて正直どうだってよくて、というのは少しの少しばかり嘘かもしれないけれど、「朝の番組の伊野尾くん」を思い起こす度に涙がホロリと出てきてしまうのはやはり終わってしまう事実が突如降りてきた絶壁のようで、まだ受け止めきれない悲しみを抱いているからなのかな…と思ったりもしました。
ホロリと涙が出てしまうのは、もう木曜日は来ない悲しさか、はたまた卒業の報告が思いもしないものだったからなのか。
それもそうなのかもしれないけど、心の根幹はどこかあったかさを帯びているような気もしていて、
ああ明日は木曜日!と思うだけで毎週毎週心が踊ってたな〜とか
「木曜日」が至福の時のように輝いて希望のように毎週そこにあったこととか
それが6年間も続いてたのか…とか
徹夜付けで厳しい生活やらに追われていて、時計が一周回って朝に伊野尾くんのお顔を見て「おはようございます」と言葉を返した時に、伊野尾くんだ〜〜〜ってホロホロ涙が出た日々とか
伊野尾くんが見せてくださる笑顔に私も朝っぱらから(まあ鏡で見たら最高におブスですが)最高に笑顔にしてもらったこととか
伊野尾くんのスーツ姿チョウカッコよかったな…とか
伊野尾くんのカッコよかったことを思い出してウヒヒウヒヒ言いながら学校までの自転車を漕いでいたら、もう揺ら揺ら揺れてっぞと友達に指摘されたこととか
周囲の方々をワッと笑わせる端的な一言や、あったかい言葉を瞬発的に発するところもカッコよかったな…でも表からはそれが軽やかに見えてご本人にとってはすごく挑戦的なものだったりしてたんだろうなとか
(長っ)
伊野尾くんが毎週木曜日の朝にくれた日常のひとつひとつの思い出とその積み重ねが本当に宝物で、そんなとんでもない宝物をくれたことへの感謝ゆえに私は泣いていただなと思ったのです。
アイドル活動をしながら朝の番組に出るということが伊野尾くんの肩にどれほどの荷が乗っていたかなんて、表しか見えない私にとって一生理解できないものですが、毎週カメラの前に立ってくださっていたことがどれほど私を救ってくれたかわかりません。
木曜日の朝に伊野尾くんのお姿を見て、ちょっとでも元気になった人がどれだけいるのか、伊野尾くんは想像したことがありますか?
「木曜日」をくれた伊野尾くんがどれほど素敵な人で、私の心をどれだけ救い上げてくれたのか伊野尾くんは知っていますか?
伊野尾くんの成し得たことってすごいんですよ!!!!!!!!!!!
もし私がお台場のおっきいビルのあの真ん中の球体だったらぐらんぐらん揺らして叫び散らかしていたことでしょう。(😒)
伊野尾くんがくれた"木曜日"にただただありがとうを、
伊野尾くんがくれたこの6年間の"木曜日"たちにありがとうを、この先もずっと言い続けていきたい
「アイドルの方の活動のおかげで頑張れました。」みたいなアイドルの方々からしたらありふれた言葉かもしれない言葉に辿り着いてしまうのですが、私が泣きじゃくった涙の意味を私の涙に何度問いかけてみてもやっぱりこの言葉に尽きるのです
「何かが終わると何かが始まる」の「始まる」はこの場合新しい仕事が決まることのように思えるけれど、必ずしもそうではないのかなと、思ったりしました。
「木曜日」が終わったからこそ、今までいただいた「木曜日」という宝物への感謝の思いでいっぱいにさせていただいた。今までの「木曜日」の日々たちが輝きを帯びて私のキラキラした思い出となってくれた。あの言葉はあながち間違っていなかったのかも。
約1年経とうとしている今、自分の中で「木曜日」は "思い出したら泣いてしまうもの" から、ぷつんと "楽しかった思い出" に切り替わっているのです。時間がそうさせたのか、変わらず伊野尾くんがこの1年楽しい気持ちと大好きな気持ちを与えて続けてくださったからか。
そこで、今まで書き留めてきた「木曜日」への気持ちを宝物箱にそっとしまえるように、このブログを発散(発散?)しようかなと思った次第です。
私に「木曜日」をくれてありがとう!
きっとこれからも木曜日は特別な曜日。☺️
これは6年も与え続けてくださった「木曜日」への私のとてつもなく壮大な感謝の記録、伊野尾くんは大きな大きなことを成し遂げてれたんだよっていう記録✉️
ちょっと時間はかかってしまったけれど、改めて本当にありがとうございました💐
お疲れ様でした🌌
先日ふと最終の放送回を編集しようかなという思いが芽生えたので、再生ボタンを押して編集をしてみました。
最後だからといって変わる様子もなく、いつも通りしてくださった姿もまた伊野尾くんらしい締めくくりだなと思ったり。
(おっと、伊野尾くんは「伊野尾くんらしい」という言葉で自分の行動を締め括られるのはあんまり好ましく思ってないのではないかと勝手に思っているので…) 私にとっての「伊野尾くんらしい」が詰まっていました。それに、最後は一生もののとびっきりの宝物の言葉をもらったなって。
もう一度再生するのにだいぶ時間がかかったけれど、これも思い出🗽
伊野尾くんと過ごせた2022、最高に楽しかった🌌またどんなになるかわからない2023、一緒に楽しめたら嬉しいです🌱
長々と読んでくださった方がいたらありがどうございます…………皆さんにとっての「木曜日」もいつか聞けたら嬉しいです🌵